雪結晶の咲夜
──雪は天から送られた手紙である。
著:中谷宇吉郎・『雪』より引用
❄
十二月の冬空は、藍より鮮やかな青一色で染まっていた。人間の住む街は、極彩色のイルミネーションで飾られており、クリスマスの雰囲気をまとっている。
そんな華やかな二つの層に挟まれた世界がもう一つ、たゆたう白雲の上にあった。人間には見えない結晶の世界。雪の花を作る者が住まう場所、結晶界である。
静岡と山梨の県境にそびえる富士山。
標高三七七六メートルを誇る雄大な活火山の上空に、フジ一族の集落はあった。彼らの集落は、下界の人間たちには決して目視することは叶わない。そんな雲の上の楽園に、いくつもの平屋が並ぶ。
彼らの役目、それは冬季に雪を降らせ、冬富士の雪化粧を行うこと。
一族の伝統行事をしきるのは棟梁の咲夜。そして咲夜の弟子、此花である。彼女ら師弟の住まいは、集落の中でも一際大きい、作業場付きの平屋にある。
「姉様、失礼いたします」
棟梁部屋の襖を引き、少女がしずしずと畳を進む。
濡れたように艶やかな漆色の髪を結い上げた少女は此花。彼女は六花弁の桜の家紋が入った縁を踏まないように、用心深く歩く。
此花の入室で、夜空色の長髪が美しい女人が襖の方を振り向いた。
「あら此花、今日の修行は終わったの?」
降雪の日を思わせるしんしんとした声が和室にとけていった。彼女こそはフジ一族をまとめる棟梁であり、此花の師・咲夜である。
(あっ……結晶華だ)
咲夜の前には、広い作業台が置かれていた。木目が美しい台の上に、手のひら大の雪の花が咲いている。
此花は咲夜の作業中に入室してしまったことを恥じ、頬を林檎のように染める。
「は、はい姉様。今日は織物に装飾する雪細工を手がけてみました」
「おいで、見せてごらんなさい」
咲夜は優しく手招きし、頬を桜色に染める此花を隣に置く。
此花は微笑みながら、ガラス細工のような雪の花──雪細工を差し出した。今回、此花が作った雪細工は、六枚の花弁を持つ桜をモチーフにし、小さな氷晶を加工したものである。
雪細工を受け取った咲夜は、片目を瞑り、その習作を見つめる。
六枚あるうちの一片には、フジ一族の誇りである富士山が彫られていた。
「家紋・富士桜の雪細工ですか……」
咲夜の眉がピクリと跳ねた。
此花の期待も応じて跳ねた。
「この富士桜、美しく整っては見えますが、花弁の先端のバランスが甘い」
「うっ」
ぴしゃりと撥ねつけてくる評価が、此花を猫背にさせた。
「これでは結晶華を手掛けても均一性が崩れてしまうでしょう。氷ノミで雪細工を削るとき、気持ちが揺らいでいた証拠です」
「うう……」
咲夜の審美眼は凄まじく、作り手の心情まで見透かしているようだった。
「しかし、その後の雲ヤスリがけは丁寧に仕上がっていますね。此花の気持ちがこもっているようですよ」
厳しく見定めていた様子が一転、咲夜は頬のこわばりを解いた。師は妙齢の貴人のように、藍染めにした着物の袖で口元を覆う。
「まるで、誰かに見せたくてしょうがないと言った風に」
「えっ、あっ……!?」
ふふ、と堪え切れずに噴き出す咲夜。
(あっ、あっ、やっぱりバレてる!?)
慌てふためいて手を振った後、此花は覗くように咲夜を見上げた。
「その、姉様。いきなり雪細工を見ていただくなんて、ご迷惑だったでしょうか?」
「何が迷惑なのですか?」
おずおずと問う此花を相手に、咲夜は蠱惑な微笑みを咲かせた。
此花は分かっているくせに、と心中で呻く。
「もうっ、姉様なんて知らないっ!」
「あら」
頬をむくれさせた此花は、居ても立ってもいられずに、棟梁部屋から飛び出していく。当初のお淑やかさはどこへ行ったのかというお転婆ぶりに、咲夜は呆れた笑みを浮かべる。
咲夜の手元には、富士桜の雪細工が残った。それから正六角形のソレを作業台の上に置き、咲夜はため息を吐く。
「此花……もう富士桜を作る年頃になってしまったのですね」
作業台には、作りかけの結晶華と富士桜の雪細工が親子のように並んでいた。
❄
咲夜に厳しい評価を貰った挙句、いいようにあしらわれた此花は熟れたさくらんぼのように頬を膨らませていた。包み込むような白雲の上をずんずん進む歩調は、淑女のソレではない。
「もう姉様の馬鹿。意地悪。鈍感」
「おや、お嬢! どうしたんですか、そんなむくれて」
調子の良さそうな声を掛けたのは、咲夜の右腕を務めている若頭の亮太だった。亮太は、咲夜たちの住む母屋の近くに居を構えており、他の若衆のまとめ役でもある。
「亮太! 姉様ったら酷いの!」
此花はぷりぷりしながら咲夜の些細な悪行を暴露した。
「あはは、なるほど! その調子じゃ、立派な結晶師は遠そうですねえ!」
「笑い事じゃない! せっかく富士桜の雪細工を作ったのに!」
「……!? 富士桜の、雪細工ですか」
唐突に口ごもる亮太。瞳がギリギリ覗ける糸目は、困惑気味に眉間に寄っていた。
「ええ、そうよ。早く一人前の結晶師になって、姉様の結晶華作りを手伝いたいから、難易度の高い富士桜を彫ったのよ」
ふふん、と胸を張る此花とは対照的に、亮太は難しい表情を保っていた。急に口元をソワソワさせたり、噛みしめるような仕草を見せている。
「お嬢。きっとそれは……」
背の高い亮太は、しゃがんで此花に目線を合わせた。此花の小さな頭の上に、亮太の分厚い手が置かれる。
「棟梁も照れ臭かったんじゃないですかね?」
「そうなのかなあ」
此花が小顔を傾げていると、後ろの方から凛とした声が響く。
「亮太! 若衆の結晶師を集めなさい!」
二人の背後から鶴の一声を浴びせたのは、案の定、咲夜だった。
(お呼びになるのは私じゃなくて、お仕事なのね)
自分を追ってきてくれたのかもしれないと期待していた此花は、枯れた花のように萎れてしまう。
「へっ、へい、棟梁! 今すぐに! じゃあお嬢、自分はこれで」
亮太は片手で謝ると、此花のもとから去っていった。一族の結晶師たちを集めに、亮太は大急ぎで駆けていく。
此花が指をくわえて亮太を見送っていると、いつの間にか咲夜が隣に立っていた。藍染の着物の衿を正し、桜色の帯をきっちり締めた姿が映える。
「姉様……あのね」
「此花、私はこれから皆に大切な話をします。それまで、他の子の所で遊んでいらっしゃい」
手を取ろうとした此花の手を、咲夜はすっと避けた。
(おかしい、いつもだったら握ってくれるのに)
「姉様、どうしちゃったんだろう?」
此花はちょっぴりべそを掻きながら、母屋の方に向かっていく咲夜を見つめ続けた。しかし、なまじ好奇心の強い此花が言いつけを守るわけがなく、
(ちょっと覗いちゃおう。私抜きでお話なんてズルイもん)
此花はトテトテと母屋の方に戻って行った。
咲夜と此花が寝食を共にする大きな平屋は、他の結晶師たちの作業場に繋がっている。
此花は、咲夜と他の結晶師たちが集まる作業場を、母屋からこっそりと盗み聞きしていた。
「──皆、よく聞きなさい。今年もこの季節がやってきました」
すると咲夜の透き通るような声が、作業場の扉を突き抜けて聞こえた。
「富士山頂の雪化粧は、我々フジ一族の伝統の務め! 来たる降雪の儀に向けて、可能な限り結晶華を作るのです!」
オオッ、と若衆の喝采が続いた。咲夜のカリスマ性をもってすれば、集落の結晶師を束ねることはたやすい。事実、耳をそばだてていた此花でさえぞわりと沸き立つものを感じている。
「わあ、いいなあ。私も結晶華を作ってみたい」
顔の熱が上がった此花だったが、それはすぐに冷めていった。結晶師見習いの此花では、結晶華作りに参加させてもらえない。
それは毎年のことだったし、毎回のことでもあったから、此花が沈んだ気持ちになるのも早かった。
「なんとかして作らせてもらえないかな……」
此花の胸に僅かな欲が萌え始めた。
なんだかんだと小言を挟む咲夜だが、結局のところ此花には甘い。富士桜の雪細工を作れるくらいには腕を上げたし、今年こそは結晶華作りを手伝わせてくれるだろう。
「ダメです」
開幕早々のこと。
咲夜は氷の礫を投げるように言い放った。棟梁部屋の座敷の中央で、此花が頭を地面に着けた結果がこの返答だった。
「えええ、何でですか姉様」
此花の情けない悲鳴が木霊する。
「ダメなものはダメです。結晶師見習いの此花が、結晶華作りに参加するなど許しません。第一……」
咲夜は振袖に隠れた手を額に当てて、呆れた表情で首を振った。
「私はまだ若衆にしかこの話はしていません」
「うっ……」
此花は分が悪くなったと思い、正座のまま後退る。
「あなた盗み聞きしていましたね?」
「し、していません!」
「嘘をつくときは、せめて私の目を見てつきなさい。まったくもう」
視線を逸らした此花に対し、咲夜は白銀の溜息を吐く。
仕方なく「おいで」と手招きすれば、此花は小首をかしげて咲夜の近くに寄った。
「よいしょ」
咲夜は此花を抱き、膝の上に乗せる。
まるで子供扱いだ。
「結晶華作りはまだ早いわ」
降り積もった劣情を溶かすように、咲夜は此花の頭を撫でる。大きな棟梁としての手。そしてそれ以上に此花を包み込むような温かい手。
「もう子供じゃないです。富士桜の雪細工だって作れます」
「知っているわ。じゃあ、そんな優秀な此花は、私と同じくらいの仕上がりの雪結晶を作れるのかしら?」
「ゆ、雪結晶ですか? まだちゃんとは……」
此花は口を濁した。
雪細工作りは、結晶華作りとよく似ていて大好きな此花だった。しかし、冷たい雲を細い糸に変えて、雪織機で織り込む雪結晶作りは苦手だった。
咲夜はそれを見抜き、あえて試すような物言いをしているのだろう。
「もしも……」
咲夜は意を決したように口を開いた。
「もしも此花が、富士桜の雪細工と同じくらい、雪結晶美しく織れるようになったら考えてあげましょう」
咲夜の口調は、此花を試していた。その真意は分からない。それでも此花は提案に頷く。
「やります。それで姉様のお手伝いができるなら!」
「……そう。じゃあ、完成するのを楽しみに待っているわね」
にこりと微笑んだ中に、物寂しさが宿っている。
此花は、その薄氷の笑みの内を覗くこともできずにただ頷いた。
❄
(先ほどは……言いすぎてしまったかしら)
桜色の唇から白い吐息が漏れた。咲夜は後悔していた。
(別に此花を試す必要も、突き放す必要もなかったのに……)
カッ、カッ、カッ。
シィー、シュッ、シュッ。
フジ一族の作業場からは、結晶華を削り、磨き上げる雅な作業音が聞こえる。一族の若衆が身を削りながら結晶華を作り上げている。
かくいう咲夜も結晶華を氷ノミで彫っている最中だった。降雪の儀までに、一つでも多くの結晶華を手掛けなければいけない。
本心では、此花に結晶華作りを手伝って欲しいと思った。しかし──その言葉を口にしたら此花との関係は大きく変わってしまう。
──咲夜の師、九十八代目棟梁・芳乃と死別した時のように。
(芳乃姉様、私は棟梁失格なのかもしれません)
咲夜は亡き師に語り掛けた。一辺の憂いと後悔が滲み、咲夜は荒削りな結晶華に触れる。
雲ヤスリで磨く前の結晶華は、霜柱がたったようにゴツゴツしていた。
(弟子が一人前になろうとしているのを、こうも認めたくないなんて……なんて浅ましい師なのでしょうか)
咲夜は作業の手を止めた。暇があれば工具を触っている咲夜にしては非常に珍しい。此花のことを想うと胸が苦しくなる。
「富士桜の雪細工を目にしたとき、あなたも私と同じ気持ちだったのですか、姉様」
❄
咲夜に難題を押し付けられた此花はむくれていた。白雲にずかずかと足跡を刻み、ひたすら作業場から遠ざかる。
その手には、いくつもの糸玉が入った籠を下げていた。
向かっているのは亮太の家だ。
「姉様はなんで意地悪するのかしら。雪結晶なんて羽織れれば誰が作ったって一緒じゃない」
此花や咲夜が着ている衣服は、雲の糸で紡いだ雪結晶だ。お日様の日差しから結晶師たちの肌を守る役目を持ち、背中と胸には一族の証が刺繍されている。
結晶師見習いならだれでも作れるものだ。そして誰でも作れるからこそ質のバラつきも大きい。咲夜が羽織るような棟梁用の雪結晶は一流の結晶師が織っているだろう。
「……」
此花は己の羽織る雪結晶をよくよく見つめた。これは咲夜の織ってくれたもので、仕上がりは素晴らしいものだ。均等に編み込まれた雲糸には一糸の乱れもない。超絶技巧の腕前に思わずうめき声さえ出てしまう。
観察すれば観察するほど、師と自分の間に劣等感を感じた。
(綺麗な織り目……私にこんなものは作れない)
同じものを作れとは言われていないし、咲夜がそれを求めているはずないだろう。
これは此花の心情の問題だった。咲夜に認められたい。
結晶師として同格になりたいなどという烏滸がましい感情は一切なかった。むしろ一生後ろをついていきたい、そんな風にさえ思う。
「それでも今年だけは、姉様と一緒に結晶華を作らなきゃいけない」
その思いは最近になって強くなってきた。咲夜とともに結晶華を作ることを夢見ると胸のざわめきが止まらない。雪虫が冬の訪れを教えてくれているような高揚感さえ覚える。
その感情が、雪結晶を一着織ったところで変わるというのだろうか。
(雪結晶を作れば、咲夜姉様へのこの気持ちに区切りがつくのかもしれない……でも、それはきっと……取り返しのつかないことのような……)
「うう……今は集中しなきゃ!」
此花は小っちゃな頭を振り乱して雑念を振り払った。
「うん、まずは亮太の家に行こう。雪織機も季節外れで使ってないはず」
雪結晶は基本的に春から夏にかけて、集落の女衆によって作成される。
無論、男衆が雪結晶を作らないことはないが、それは見習いである弟子が一人前の結晶師になる時しか織らない。
冬真っ盛りである現在は、誰も雪結晶など作りはしない。
「こんにちはー! 隆介いるー?」
亮太の家の引き戸を音を立てながら開くと、奥から布ずれの音をさせて同い年くらいの男の子が現れた。
「何だ、此花じゃん。せっかく結晶華作りで亮太兄がいないんだからゆっくりさせてくれよな」
亮太よりも快活そうな表情の隆介は、それでも面倒そうに垂れ目を伏せた。
「何言ってるの、同じ見習いのくせに。修行はどうしたの」
「それは……今からやるとこ」
絶対にサボってたでしょ、と言いたいのを堪えて此花は家に上がった。
「雪織機を借りたいんだけどいい?」
「いやって言っても使うんだろ? 次期棟梁特権~、とか言ってさ。いちいち訊くなよ」
「そうしたいの山々だけど、断りは入れないと姉様に叱られちゃうからね」
咲夜はそういった他人への礼節に人一倍厳しい師匠だった。どうやら咲夜の師であった芳乃という先代棟梁からの教えらしい。
「雪織機の場所は分かるよな? そこの襖の奥だ」
「前来た時と変わってないね、了解」
此花にとっては勝手知ったる亮太の家だ。
奥に引っ込んでいく隆介を他所に、此花は襖を開け放つ。人一人が作業できるだけの和室の中心に雪織機がどっしりと居座っている。
雪細工ばかり弄っていた此花には、かなり久しぶりの雪織機だ。さっそく雲糸の玉を解き、
経糸と緯糸を設置する。
経糸を上下に分けて、その間に緯糸が入り込むように配置すれば準備は完了だ。
「うん、糸の張り方は忘れてないね」
今回、此花が挑戦するのは着物の雪結晶ではなかった。着物に使うような雲糸はとても丈夫で、かつ比較的太めのものだ。
対して此花の持ってきたのは、シルクのように極細繊維の雲糸だった。
白雲糸と呼ばれる撚糸は、快晴の日に富士山頂にかかる白雲からしか取れない。そしてその冬の内に、雪結晶に加工しなければ春には溶けてしまう。
頑固な職人のようにとても気難しい素材だった。そんな白雲糸は、もっぱら羽衣を織るのに適していた。
当然、此花が作ろうとしているのも羽衣の雪結晶である。
「じゃあ、始めますか」
此花は着物の袖を肩までまくり、紐でくくって固定した。
機織りの基本的な動き自体は簡単だ。雪織機の前に腰を下ろし、一定の動作を延々と繰り返すだけだ。ただその一定の動作という者が曲者なのだ。
「…………」
カッ、カッ──と織機の下部にある踏み板を交互に踏み、二つの経糸の上下を入れ替える。そうすると経糸に挟まれた緯糸が編みこまれて三本の糸が絡まる。
「…………」
シュッ──。
その後に三重に折り重なった雲糸を詰めた。すると織り目が引き締まり、美しい模様が浮き出す。
「…………いい集中力よ、此花」
そう自分に言い聞かせた。
──この平織りを極めた結晶師は、雪結晶を輝かせるとまで言われていた。
決してそこまでの腕だと傲慢になるつもりはなかったが、同世代の結晶師見習いの中では、此花の技量は頭一つ抜けていた。それこそ次期棟梁としての実力を疑われない程度には。
だが、それでも咲夜の雪結晶には一つ及ばない。咲夜の織った雪結晶は、とにかく経糸と緯糸の並びが美しいのである。
初雪を摘まむような繊細な指と天性のリズム感が織り成す雪結晶は、雪景色を彷彿とさせると謳われたほどた。
歴代の棟梁の中でも五指に入るだろう超絶技巧の持ち主、それが咲夜だ。此花はそんな師を満足させなければいけない。ちょっとした拷問である。
「カエルの子はカエルよ。姉様にできて私にできないなんて許されないんだから」
自らを奮い立たせた此花は、機織りを再開した。
カッ、カッ、シュッ。
カッ、カッ、シュッ。
その日は一日中、雪織機の小気味良い音が和室に響いていた。
❄
「はー……何なのかしら、この体たらくは……」
此花に課題をあげて追い払ったはいいが、咲夜はまったく集中できていなかった。先ほどから手を震えが襲い、十個に一つのペースで結晶華に傷を付けてしまっている。
正確無比な六角形の氷晶は、外部からの圧力にとても弱い。表面に一本の傷が走るだけで、湖の上に張った薄氷を踏み抜いたように砕け散ってしまう。
咲夜はすでに十個以上の結晶華を粉々にしてしまっていた。
自分の心は、結晶華に負けず劣らず脆かったのかと呆れた。
「棟梁、失礼いたします」
悩まし気に白い吐息を漏らしていると、若頭の亮太が入ってきた。瞳の見えない糸目と困り果てた愁眉は、枝葉に雪が積もるように垂れ下がっていた。
「亮太じゃないの。急にどうしたの」
「どうしたの、はないでしょう。机の周りに結晶華の成れの果てが散らばっていますよ」
咲夜は肩の力を抜いた。亮太は幼いころからの馴染みだ。今でいうと、此花と隆介のような関係だった。それも咲夜が棟梁に、亮太が若頭になってからはすっかり上下関係が板についていた。
だが、こうして二人きりの時は別だ。道に積もった雪が解けるように、お互いの距離感はぐっと近づく。
「やだ、見ないでよ」
氷の破片が床に散乱しているのに気づいて、咲夜は頬を赤く染めた。みっともない姿を見られたのが恥ずかしい。
雲があったら隠れたい咲夜だった。
「お嬢のことですか?」
亮太は不意打ち気味に問う。
「……ええ、そうよ」咲夜は苦笑した。「亮太には隠せないわね」
「実は今朝、お嬢から聞いてしまいまして……富士桜の雪細工のこと」
「まあ、そんな所でしょうね。他の皆には、このことは……?」
「知らねえと思いますよ。ただ、知れ渡るのは時間の問題かと」
「ふむ……」
咲夜は考え込むように袖を口元に寄せる。
「わかりました。此花ともう一度、向き合ってみましょう」
「それでは、ついに『代替わり』への御覚悟を決めたということで?」
「ええ、それが私と此花のためならば」
代替わりとは、百年周期で生きる結晶師たちの世代交代のことだ。
技と伝統を教え込まれた弟子たちが、新たな時代を作る幕開けでもある。
──その予兆こそ富士桜の雪細工。
咲夜は工具を置いて席を立った。
「此花を探してきます。亮太、少し場を任せますよ」
「はい、棟梁」
亮太は深々と頭を下げた。
❆
結晶師たちの生まれは壮絶極まる。
高度一万三千まで届く積乱雲の上質な部分だけを使い、師となる結晶師があらゆる技巧を駆使して磨き上げる。
そうすることで、氷粒を含んだ積乱雲を固めて、人型に生まれ変わらせていく。
──咲夜、お前もいつか弟子を持つはずだ。けど弟子とは必ず別れなきゃならない。師と私が別れ、私がお前と別れるように。それが自然の摂理なのだから。
もう遥か昔に聞いた先代・芳乃の言葉が蘇る。
(芳乃姉様。私には、姉様のように冷静にたかが『代替わり』と割り切ることはできません。でもだからこそ、私は此花と向き合いたい)
ただ、果たして此花が納得するかは分からない。
いつも咲夜にべったりな此花である。じきにくる別れを告げたところで、首を横に振る可能性は充分にあった。
だが代替わりの兆候が表れてしまった以上は、そんなワガママは聞いていられない。一刻も早く、咲夜の技術、次期棟梁としての心構えと遺志を引き継いでもらう必要がある。
どう諭したものか…………。
そんな憂いを抱えて彷徨い、咲夜は亮太の家に辿り着く。
家の中で、此花が雪結晶作りに励んでいるのだと思うと、咲夜は代替わりのことを思い出して胸が締め付けられた。
(……少し覗いてみようかしら)
咲夜は礼を欠いた行為であると分かっていながら、そーっと家に侵入した。まるで盗人のように入ってしまった。普段から、此花に口酸っぱく礼儀を解いている自分とはかけ離れた行為……本当に、どうしてしまったのだろう。
──カッ、カッ、シュッ。
「あら……?」
雪織機の稼働する音。
咲夜はその音に聞き入った。咲夜の知りうる此花の奏でる機織りの音は、不揃いな雨粒が地面を叩くような……とにかく少しばかり雑だったのに。
襖を隔てて聞こえてくる音はどうだろう。
まるで鹿威しの落ちるような軽快なリズムを刻んでいるではないか。
(本当に、此花が織っているの?)
驚くほど心が安らぐ機織り機の刻む音が、咲夜の鼓動を急かせた。
咲夜は我慢できずに、そっと和室を覗く。
──カッ、カッ、シュッ。
「……」
──カッ、カッ、シュッ。
「…………」
真に迫る此花の背中が見えた。一心不乱に、雪結晶を織っている。
咲夜の目と鼻の先で。
それは紛れもなく結晶師としての──。
「あれ、棟梁。いらっしゃってたんですか?」
「っ!?」
横から呼ばれた咲夜は、肩を跳ね上げた。
振り向けば亮太の弟子、隆介がくりくりとした瞳を向けている。どうやら雪細工を掘っていたらしく。休憩がてら此花の様子を身に来た様子。
「シー……静かに」
唇に人差し指を当てる咲夜。
隆介はよく分からないが、棟梁の命令は絶対なのでこくりと頷いておいた。
「あの子は、此花はどれくらいあのまま?」
「えっと……もう半日は続けてますね。俺の声も聞こえてないみたいです。そろそろ亮太兄様が帰ってくるだろうから、呼びかけに来たんですけど」
「そう……」
鬼気迫るように見えたのは、咲夜の勘違いではないということだ。
此花は本気で棟梁を目指し始めたのだろうか?いや、今までも本気には違いなかっただろうが、何というか……
「此花、どうしてそこまで結晶華作りに参加しようと……」
「それは、少しでも棟梁の助けになりたいからですよ……あっ」
隆介は「しまった、これ口止めされてたんだった」と慌てて口を塞いだが、時すでに遅し。
「私の、助けに?」
(次期棟梁のこととは関係ないのかしら?)
首を傾げた咲夜が、ずいっと隆介の顔面に顔を寄せた。
「ひっ」
「隆介、その話詳しく教えてちょうだい」
「と、棟梁。そ、それだけはご勘弁を……俺が此花に何されるか……」
「あらあら大丈夫よー。此花より私の方が怖いから。さあさあ、奥でお話をしましょうね」
隆介は怯えながら「兄様、助けて……」と声を漏らしたが、残念ながら、亮太は大量の仕事を押し付けられているので助けには来ない。
微笑んだ咲夜は、隆介を奥の部屋へと連れ込んでいった。
❆
陽が落ちる頃。
──カッ、カッ、シュッ。
──カッ、カッ、シュ……。
巾着のひもを締めるように、雪織機の稼働する音が止んだ。
「今日はこれくらいにしておこうかな」
此花は三分の一くらい織った雪結晶を見て、満足そうに頷いた。このペースなら明日、明後日……遅くても明々後日には織りあがっているはずだ。
それなら、咲夜たちの結晶華作りに間に合うはず。
「おーい隆介ー!」
「おーう」
返ってきたのは生返事だった。
「隆介?」
あまりの覇気のなさに驚いた此花は、和室からひょっこりと顔をのぞかせた。
「どうしたの、隆介? 何か」
──あった? と聞こうとして硬直した。
藍染めの着物に、麗しい黒髪。竹を入れたように、背をピンと正した女性が立っている。
その隣では、顔色をなくした隆介が半泣きになっていた。
「さ、咲夜姉様!?」
「此花、迎えに来たわよ」
何やら上機嫌な咲夜。
対照的な二人の態度に、此花は小首をかしげる。
「迎えにですか? 姉様、つかぬことをお聞きしますが、お仕事は?」
「亮太が私の分までやってくれているので問題ありません」
「兄様……」
隆介は、亮太に未来の自分の姿を見たようでちょっとうんざりしていた。
二人は、そのまま亮太の家をお暇し、仕事帰りの結晶師たちとすれ違いながら自宅に帰っていく。
途中、亮太ともすれ違った。死にそうな顔で笑っていたのが、此花の頭から離れない。
「姉様、今日はどうしてお仕事を抜けてきたんですか?」
「ん~? 秘密ですよ」
咲夜は夕飯を作りながら、嬉しそうに答えるのだった。
❄
その翌日、そして、翌々日と、光陰は矢のごとく過ぎていった。
咲夜はフジ一族を導きつつの結晶華作り。
此花は雪結晶の最後の仕上げに取り掛かる。
すでに雪織機でできることは終えて、〆の刺繍をするだけ。
「コレなら、きっと姉様に似合うよね」
此花が織った雪結晶は長い羽衣だった。
その透き通るような生地は、オーロラのような輝きを放っていた。そこにアクセントとして富士桜の刺繍をし、この雪結晶は完成である。
(この雪結晶を咲夜姉様がまとったら、きっと天女様みたいになるんだろうなあ……)
思わず、ふふ、と笑みがこぼれる。
「最後の仕上げ……か、うん」
此花は意気込んで氷針と桜色の雲糸を取った。
そこからは、ひたすら無心で針を抜き差しする作業が続いた。
氷針が布地の表裏を往復する度に、此花の感情も右往左往と揺さぶられる。
(この雪結晶が仕上がったら、姉様はなんて声をかけてくれるのかな?)
よく頑張りました、か?
それともこれで──。
(…………その先は? それともこれで……なんなの?)
ピタッと刺繍の進みが止まった。
ふっとしたときに、考えてしまうことがある。
(この羽衣が完成したら。そして、姉様に渡したら。きっと今までみたいな感じではいられない)
普段、自分の勘をあまり信じない此花だが、この時は確信めいたものを感じ取っていた。
半身が溶けてしまうような空虚な想い。それらは此花の心の穴から雪解け水として漏れ出ていく。
(今は、咲夜姉様の手伝いができるように頑張る……それだけのはずでしょう?)
そのために一人前の結晶師と認めてもらうのだ。そう意気込んだ此花は、刺繍の手をより迅速に、正確に動かし始める。
そして、富士桜の刺繍が完成すると、
「……なのに、どうして。この雪結晶を渡したくないと思うの?」
此花のまなじりには、大粒の雨のような涙の玉が浮かんでいた。
❆
下弦の月が微笑みながら照らす夜。
此花は、夕食の雪ご飯を箸でつついていた。ふわりと霜が降りた茶碗の中に、真っ白な氷の粒が積もっている。
その中身は一向に減っていなかったが。
「ご飯、もういいの?」
「うん、あんまりお腹空いてないの」
此花の空気を察してか、咲夜は余計なことは言わなかった。
「じゃあ、もう寝る準備をしなさい。明日も早いわ」
「うん、その、ね?」
「どうかしたの?」
コトッと茶碗を置く。
「姉様に受け取って欲しいものがあるんです」
咲夜の顔貌が凍り付いた。
此花は、背に隠していた包みを咲夜に差し出した。
「姉様に申しつけられた雪結晶です」
包みを広げると、咲夜の手元に純白の羽衣が残った。
腕にかけて広げてみれば、空を流れるすじ雲が広がり、咲夜の胸に蒼天を描く。
「…………銘は?」
「え?」
「この雪結晶の銘を聞いているのですよ」
羽衣に瞳を釘付けにしながら、咲夜は無意識に聞いた。職人にとって作品に銘を刻むのは、誇りであり、名誉である。
同時にそれは、一人前の職人にしか許されない行為だった。
(姉様に認められた!)
全身の肌が粟立つ。
それから咲夜の言葉を反芻する。
「銘……銘……」
雪結晶を織っている最中には考えてもいなかった。
だが、此花は元から分かっていたように、小さな唇から漏らす。
「『富士の夜桜』」
「夜桜? この羽衣は純白じゃないの。おかしくないかしら?」
「いいえ、夜桜です。だってほら……」
此花は咲夜の首に羽衣を回した。
咲夜の藍染の着物に、薄い雲がかかる。
「姉様の髪に合わせて、巻くとね?」
富士桜の刺繍が、咲夜の後ろ髪とピッタリ重なった。
夜空には六花弁の桜が咲き、
「ほら、夜桜になった」
此花は梅の花のような笑みを咲かせる。
瞬間、咲夜は悟った。
──あゝ、これが新しい世代。
職人としての感性を塗り替えられる感覚。
目の前で、花開き始めた弟子の才能を。
認めなくて何が師か。
「此花、よく聞きなさい」
「はい?」
咲夜は、小首を傾げる此花の頭を撫でた。
冬の小枝のような白指が、此花の髪を梳いた。
「明日、作業場に立つ気はありますか?」
「……」
此花は言葉を失った。
弟子を作業場に立たせることの意味。それを知らない此花ではない。
一人前の結晶師として認められたという、弟子にとっての最高の誉れ。それが作業場に立つということ。
「もう一つ。やがて私が溶けたとき、棟梁として皆の前に立てますか?」
「えっ……?」
此花の顔色がさっと蒼白くなっていく。
「溶けるってどういうこと? 姉様、いなくなっちゃうの?」
言葉は敬うことを忘れた。
これまで感じていた不安が、一気に結晶となり、此花の胸中を埋め尽くす。
「ええ、今すぐにではありませんが」
咲夜はそっと手を差し出した。
「握ってごらんなさい」
「……」
いつもだったら喜んで握る手なのに、今は触れるのも恐ろしい。
──きゅっ。
咲夜の手からほんのりと熱を感じる。
「私の手は、もうだいぶ温かい。あと数年もすれば、私は──」
「いやっ……消えないで、姉様!」
此花は続く言葉を遮った。
「お願いだから、怖いこと言わないで……」
此花は咲夜がどこにも行かぬよう抱きしめた。
安心する温かさ。
いつも感じていた温もり。
それらが二人の絆を溶かすものだと誰が思おう。
「此花。雪は春に溶けゆき、いつか冬が明ける。私は師として、その訪れを告げるの。此花という小さな蕾が、より大きく花開けるように」
咲夜は小さな体を抱きしめ返した。
「冬明けまであと僅か。それでもあなたは、蕾のままでいるつもりですか?」
「いや!」
「ならばっ……ならば頭を上げなさい! そして咲かせるのです!」
しがみつく弟子を引きはがし、その瞳を合わせる。
此花の顔はすでにグズグズだった。
ワガママはもう終わり。
「……私に見せておくれ。此花だけの結晶華を」
此花は観念して頷く。
「わかりました。でも姉様、咲くのは一度だけでいいでしょ?」
「……それが此花の決断ならば、私は尊重するわ」
──此花は知らなかった。
咲き誇った雪の花は、その芯が溶けるまで、咲き続けるしかできないのだと。
❆
降雪の儀まで一週間を切った。いよいよ結晶華作りも大詰めだ。
この日から修羅場と化す作業場に、集落中の結晶師が集っている。
「咲夜様がこんな時期に皆を集めるなんて珍しい」
「本当に。何があったんだろう?」
若衆たちは口々に疑問を打ち明け合っていた。この時間が惜しいときに、咲夜が招集をかけるのは相当珍しいことなのだろう。
「皆、忙しい時に呼び出してすまないわね」
でも少しだけ話を聞いてちょうだい、と咲夜が続ける。
若衆たちはその雰囲気に押し黙った。
「今日から一週間、降雪の儀まで此花を手伝わせることにしました」
「「「!?」」」
若衆の動揺は、咲夜を中心に波紋となって広がった。
「此花、こちらへ」
咲夜は母屋に繋がる扉に呼び掛けた。
作業場を窺うように、此花が顔を出す。
とてとてと草履で走ってくる様は子鼠のようだ。
「え、えと……よ、よろしくお願いします!」
「お嬢だ」
「本物の此花お嬢だ、じゃあ……」
若衆たちの騒めきが止まらない。
パンッと亮太の柏手が叩かれる。
「ほら皆、分かっただろう? お嬢の初陣だ。今年は例年以上に気合い入れていくぞ!」
「お、おう!」
「そうだな、お嬢にみっともないとこ見せられねえ!」
流石は若頭。亮太はあっという間に、他の結晶師たち結束させる。
「ありがとうね、亮太」
「何のことですか、棟梁。自分は若頭の務めを果たしただけですよ?」
亮太は糸目で柔らかく微笑んだ。
此花のお披露目を終えたところで、若衆たちは各自の作業に戻っていった。
「さあ、此花。こちらにいらっしゃい。共に……結晶華を作りましょう」
咲夜が自らの作業部屋へ手招きする。此花が後に続く。
「……」
なぜか、いつも見ているはずの作業部屋が新鮮に感じた。
机の上に置かれた氷ノミ。
氷晶がこびり付いた雲ヤスリ。
真ん中には荒削りの結晶華の花弁が開いている。
「どうしたの? 早くお入りなさい」
「あっ、はい」
此花が作業中の部屋をまじまじと観察したのは、実は初めてのことだった。
弟子が断りなく業を盗むことはご法度であり、全ては師による口伝と手ずから指導するのが伝統。
だから本当は、此花が咲夜の手伝いをするのはあり得ないことだ。
しかし、そのしきたりは今日をもって解かれる。
──それは、己が瞳で師の業を盗み、糧にせよという、咲夜からの此花への最期の教え。
「此花、結晶柱を知っていますね?」
「はい。結晶華の形に削る前の、六角柱の氷晶です」
咲夜は頷き、手のひらに乗るサイズの正六角の氷柱を取り出す。
「この結晶柱を氷ノミで削ります」
作業台の六角の窪みに結晶柱を固定された。それから咲夜は、左手に氷ノミ、右手に氷槌
を構える。
「ふっ……!」
氷ノミの柄の後端、カツラの部分と氷槌の頭が弾ける。
瞬間、キンッと澄んだ音が響き渡った。
削り取られた氷片が、机の端っこに飛んだ。
「これを六方向に、均等に行っていきます。寸分の狂いも許されない作業ですが、今の此花ならばきっとできるでしょう」
「や、やってみます」
おずおずと氷ノミを握る此花。体が溶けてしまいそうなほどに、熱くなっているのが分かってしまう。
(思い出せ、姉様の手付きを。振るう力は最小限。結晶柱の断面に逆らわないように……)
氷槌を振る。
キン、と氷片が飛んだ。
「……できた!」
断面は滑らかに見えたが、
「あ……」
ピシッ、と結晶柱に細かいひび割れが走る。
「ああっ」
結晶柱はあっけなく砕け散ってしまった。
「む、難しい。雪細工よりよっぽど難しいです」
「そうですか? では富士の夜桜を織ったときを思い出してみなさい」
「えと、雪結晶と結晶華では勝手が違いませんか?」
そう尋ねてみるが、まずはやってみなさいとばかりの笑みを向ける咲夜。新しい結晶柱を置き、弟子を見守っている。
此花は促されるまま、雪織機の前に座った時のように、意識を手元に集中する。感覚が研ぎ澄まされて、理想の削り線が浮かび上がるまで。
(そうか。工具だけで削るんじゃない。腕から手、手から指、指先から工具に伝わるわずかな
振動まで、全部ひっくるめて私が……打つ!)
瞬間、空気が張り詰めた。
キンッ、と結晶柱の辺が欠けた。今度は力が分散せずに、氷ノミに伝わった手応えがある。
「でき、た?」
結晶華作りの第一歩を踏み出したことに感動する此花。
「だから言ったでしょう。此花ならできると。ほら、もう一度」
「はい」
咲夜は次の指示を出した。ここからは結晶柱の六辺を均等に削っていかなければならない。そう、最初と全く同じ力加減で。
「で、出来ました」
「では次。今度は少し斜めに削っていきますよ」
此花は頷いてノミの刃の向きを変えた。今度は角度を変えて削っていき、金剛石のような仕上がりにしていく。
「この一連の作業を何度も繰り返し、結晶華は形を成していくのです」
「ふー、気が遠くなりそうです……」
「最初はそういうものです」
咲夜は、楚々と頭を垂れる白百合のように微笑んだ。
「でも、私の最初の頃よりずっとよいですよ? ここまで削るのに十回は結晶柱を砕きましたから」
此花は目を丸くした。
集落一の結晶師、棟梁・咲夜にも失敗があったことに驚く。
「咲夜姉様が?」
「信じられませんか?」
「当然です!」
弟子の厚い信頼が、咲夜の心をくすぐった。
満更でもなさそうに、咲夜は咳払いする。
「こほん。ま、まあ、誰にでも初心の頃があるという話です」
「むー……」
話をはぐらかされた此花は頬を膨らませる。
咲夜がそんな弟子の頭に手を置く。
「いくら美しくても、誰もが認める技量を持っていても、そんなことは結晶華にとって飾りでしかないのですよ。なぜか、わかりますか?」
「……うーん?」
首を捻る此花。
「あなたはもう出来ていることですよ?」
「ええ?」
どうしてもわからないようだった。
咲夜は苦笑しながら此花の胸を突いた。
「心が込もってない、からですか?」
「その通り。拙くてもいいのです。醜くてもいいのです。結晶華に想いが込められていれば、何某かに触れて溶けた瞬間、そこに心が残る」
咲夜はそうして結晶華を作り続けてきた。
冷たい雪の花で情熱を包み、下界へ届ける。
それだけを考えて、ずっと……。
「私たち結晶師が生きた証は、形には残せない。しかし、この脆く儚い結晶華に、永遠を込めることはできる」
溶けてしまうもの。
消えてしまうもの。
それでも残るもの。
「それが、私が此花に残せる唯一の絆」
「姉様……」
此花は胸元の襟をきゅっと握る。
「受け取ってくれますね? 私のすべてを」
春が近いわけでもないのに、此花のまなじりから時雨が落ちる。
「はいっ……はいっ、あますことなく全部っ……」
此花は、膝元に雨粒をぽろぽろと落として頷いた。
「ありがとう」
(芳乃姉様、私も無事、師の業をまっとうできたようです)
此花を抱きしめながら、亡き師に思いを馳せた。
❆
じきに、降雪の儀が執り行われる。
集落の結晶師たちは、己が弟子たちと一緒に飲めや歌えやで大賑わいだ。
若頭の亮太などは、隆介を肩車しながら陽気に踊っていた。
そんな熱狂の渦中にあって、咲夜と此花は静かに佇んでいた。
「此花、雲の縁に行きましょうか」
「はい、姉様」
本来なら、降雪の儀の祭事に、棟梁と次期棟梁がいなくなるのはご法度である。
だが今日は、そんな文句を言う者は誰一人としていない。
咲夜たちは、祭りからひっそりと抜け出したのだった。
二人は富士山頂を見下ろせる雲の縁までやってきた。まず咲夜が雲の縁側に座り、その膝の上に此花がちょこんと腰を下ろす。
「ゆっくり歩いていたら、だいぶ時間が経ったわね。そろそろかしら?」
「…………?」
此花がその意味を図りかねていると、視界の上の方で綺羅と正六角の結晶が輝いた。
「あっ、結晶華」
集落の方の騒ぎが一段落し、降雪の儀が始まったのだろう。
幾万、幾億の雪の花たちが、ここから富士山頂に、さらに風に乗って下界に降り注ぐ。
「ごらんなさい、此花」
咲夜は降りゆく結晶華を仰ぐ。
「あの結晶華の一つ一つに、私たちの想いや技術のすべてが込められているのよ。勿論、私と此花のものも」
「はい……姉様」
此花は声が潤み、嗚咽が溢れそうになるのを堪える。
我慢しようとして咲夜にしがみつけば、ほんの少し、温かみを感じる。
「遠くない日、私はこの濃紺の空に溶けて消えてしまうでしょう」
咲夜は割れ物を扱うように此花を抱きしめた。
どうしようもない別れを前にして、ただ消え去ってしまう自分が虚しかった。
そんな咲夜の右手を、此花は小さな両手で握りしめた。
「それなら私は、溶けてしまった姉様を空からすくって結晶華にしますね」
此花は淡い桜のような微笑みで応えた。
いつの日か 二人の絆 解けるまで
この夜と共に 雪の花咲く
*
空の下、下界のとある街並みで、
「あっ、雪だ」
「すげー、静岡じゃ御殿場くらいしか降らないと思ってた」
「私も」
カップルが夜空を見上げて呟いた。
「ホワイトクリスマスね。ロマンチック……」
「本当、なんか祝福されてるみたい」
マフラーを巻いた女は、粉雪に霜焼けぎみの指をかざした。
「あれ?」
「どうしたの?」
てのひらに触れただけでも、その雪の花はとけてしまったけれども、
「この雪、ぽかぽかしてた」
たしかな熱がそこにはあった。
了